ゴトリ。

 夜中にも関わらず無遠慮に人の眠りを中断させた音に眉根を寄せる。
 無言で障子を開ければ見慣れた頭が、濡れ縁にその濡れ羽の様な漆黒の髪を散らしていた。
「…何してんの?」
 声をかければ酷く緩慢な動作で、ゆるゆるとこちらに向けられる目。
「お、さ…」
 薄らとその瞳が細められるのを見て、きっと自分の眉根には酷く皺が寄っているのだろう。
「怖い、顔…」
 ふ、っと小さく弧を描いた口元に、つぅと朱が引かれる。
「ごめんなさい、失敗、しちゃいました…」
 鼻をつく血の臭いに気付いていた。なのに、この体は、頭は、真実を認めず動いてはくれない。
「、…?」
 知らぬ間に止まっていた息を押し出すと共に名を呼ぶと、弾かれた様に己の腕は彼の躯を抱えた。
っ!」
 抱き込んだ腕に、寝巻きにじわりと伝う生暖かさ。それが何かを悟るより早く強張った手が傷口を強く押さえる。
「一体、何があった?」
 震えそうになる声を低くする事で抑え問いかけると、長い睫毛が震えぼんやりと目蓋が開かれる。
「国境で…大丈夫です、始末は、しました…織田の者でし、た」
 途切れ途切れに的確な答えを返してくるが、傷口を痛む様子を見せない事に焦りが募る。
「手当を…」
「長」
 不意に力強く名を呼ばれ、視線を向ければ緩く、だがはっきりと首を横に振られる。
「もう、手遅れです…長も、解って、るでしょ…う?」
 ハっと目を見つめれば、虚ろな瞳が見詰め返してくる。ゆるりと瞬きをすれば、更に虚ろさが増す。
 何かをする毎に生命がその小さな躯から零れていく様で、瞬きも、いっそ呼吸すらも止めてしまいたかった。
…」
 今まで幾度も経験してきた筈なのに、彼の事となると名前を呼ぶ事しか出来ない己がもどかしい。
 ぐい、と優しく口元の朱を拭ってやると、柔らかい笑みを浮かべる。その笑みにどうしようもなく胸が掻き乱された。
「っ、…」
 緩く躯を抱き締めると、今更ながらその小ささ、細さに驚いた。
「長…苦しい、です…」
 細い声に益々力が籠る。抱き締めて、命が流れない様に。
「お、さ…俺…お役に、立てましたか…?」
 今にも消え入りそうな声に、思わず顔を覗き込む。
 腕にかかる頭の重み。白い頬に当てた掌に、いつもの温もりを感じない事が酷く恐ろしくて哀しい。
「役に、立ってるよ。これからも、役に立ってもらわなきゃ…」
「ごめん、なさい。…俺、もう…お役に、立てないみたいで、す…」
 ごぽり、と朱が溢れる。目が、霞む。ちゃんと見たいのに、何だかよく目が見えない。
「長…」
 少し驚いた顔をして、それからふわりといつもの笑顔が向けられる。白い指が伸びて、俺の頬をなぞる。
 その柔らかい肌が濡れるのを見て、やっと自分が…忍びの自分が涙を流しているのに気付いた。
「自分の為、に…泣いてくれ、るん…ですね…あり、がとう…ございま、す」
っ!」
 濡れた手を取り、強く握り締める。痛がる様子もなく、強い力にその白い手を重ねて、彼はただただ微笑んだ。
「長…俺も      」
 ふっと微笑んで彼はその綺麗な瞳を長い睫毛で隠した。途端、ふぅと抱えた躯に重みが増した。
…?っ、っ!!!」
 幾ら名前を呼んでも、躯を揺すっても、ぴくりとも動いてくれない。
 二度とその瞳は自分の姿を映してはくれない。もう二度とあの綺麗な声で「長」と呼ばれる事は無い。
 そう解った瞬間、彼の躯をキツく、キツく抱き締めた。
………お疲れ、様…」



 いつからか降り出した雨の音がただ耳に痛い。
 彼の躯が濡れぬのなら、己がいくら濡れ様とも構わない。
 自分の躯が冷えるのも構わずに、ただただ彼の躯を抱き締めていた。
「俺様、何も言ってないのにさ…お前には解っちゃったんだね。それともそんなに感情が漏れてた?―…本当、敏い奴だね、お前は」
 最期に彼が伝えた言葉は、最後まで言葉に出来なかった俺への慕情。
「      」
 小さく零された言葉は雨音に流され、消えた。





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ちゃんと伝わっているか心配です。
凄く素敵なお題なので…拙い文章ですが…。
ここまで読んで頂き、有難う御座います。

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